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マスク、今だ品薄

 政府首脳の説明では今頃は在庫で溢れているはずなのに、まだ店頭などでは品薄。もっとも、ちょっと送料が入ってお高くなるが、ネットでは買える感じ。
 自分の場合は、こうなる前にひと箱(60枚)買ってありました。なんせ花粉症なので、そろそろ飛散始まったな、って時にドラッグストアに買いにいった。その時でも、既にかなり品薄でした(この時期、いつもは絶対に在庫山積みなのに、店の片隅に10箱くらい残っているだけだった)
 それと去年の残りが家に結構あり、今のところそれでやりくりしている(w)。虚弱体質+花粉症なのが幸いしたか……。

 消毒用アルコールもO157が流行ったときのやつがまだ残っていたのであった。もっとも面倒なのであまり使わないが。

 トイペはちょっと危なかったです。買占め騒ぎが始まった時に残り数ロールだったが、3週間待って買いに行ったらイオンが大量に在庫を積んでくれたので。しかも、いつも使っている銘柄のやつ(再生紙じゃないのでちょっとお高い)。この時でも一人1セットの制限がありました。

 それにしても、パンデミックが始まっても、個々人が社会(経済)を回していかないと、最後は餓死が待っているんですね。こういうの、パニック映画では描写されたことはないよなあ。普段の生活をして社会を動かしていかないと、結局ウイルス感染をまぬがれても死ぬしかない。非常に厳しい。
 それと同時に、やっぱり社会の中で個々人にそれぞれ役割があり、みんなで協力して初めて人間社会が成り立つのですね、こういうことがあると良くわかる。人間=社会的な動物だと(一説だと、もし現代文明がないと、日本で暮らせるのは最大3000万人だそうです)

 これが国の中だけでなく、今は世界の国々の間で成り立っている関係でもあるのだから、ホモ・サピエンスの歴史もとうとうここまで来たか、という感じ。世界の片隅で発生した疫病はもう他の国に無関係のものではなく、協力して抑え込んでいくしかないのです。国際協力の強化が望まれますね。トランプのように自国だけ良ければいいんだ、という考え方は間違いだったとわかります。
 孤立・排他主義に向かいつつあった世界にとって、非常に高い勉強代になりました。「国際協調なき世界=死」です。

(追記:と、言っていたら志村けんさんがコロナで亡くなってしまわれた。僕らの世代は「8時だョ!全員集合」直撃世代。当時の子供の視聴率だけなら100%だったんじゃないだろうか。心よりご冥福をお祈りします)

↓まさかと思って東村山市のHPを見たら。志村さんのギャグで一挙に全国区になりましたからね。

東村山市出身の志村けん氏のご逝去に伴い、市長より哀悼の意を捧げます(令和2年3月30日)
https://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/mayor/20200330aitou.html

「蜘蛛の糸」秘話?

 前回からの流れで、「赤い鳥」創刊号に載った芥川龍之介「蜘蛛の糸」にまつわる、面白い話。結構前にNHKスペシャルで見ました。細部に記憶違いがあったらお許しを。

 「赤い鳥」を準備中だった鈴木三重吉のところへ、芥川龍之介から「蜘蛛の糸」が送られてきた。三重吉は一読し、「さすが当代一の若手文学者だ、文章が流麗で切れるようだ」なんて言いながら、おもむろに原稿に赤ペンで修正を入れ始めた、というのですが。
(三重吉は編集者でもあった)

 なんとこの赤入れされた原稿が現存していて、実際のものが映っていました。これがもう、修正だらけのズタズタで(笑)。ぎっちり赤が入って、大きく元の文章が改変されているのです。見ているこっちは真っ青です(w)。

 自分みたいな元・ライターでも、まとまった文章を書くときは構成や段落・表現を練って完成品を編集者に送りますからね。こんなに直されたら大抵の人はブチ切れます(w)。ましてや希代の文学者・芥川龍之介、これは怒ったんじゃないか、と思ったのですが。
 ところがところが、芥川はそれを全て受け入れた、というのですね。理由はなぜか。

 もうこのレベルの方々だと、赤が入った原稿ですら貴重な文学的資料。いったい三重吉の直しとは? 見ていくと、全て「長い文章は分割する」「難しい表現は開いて簡単にする」、こういう修正ばかりなのです。つまり、子供が読むのだから、子供がわかる文章や表現にしましょう、ということ。三重吉はいつも子供たちのことを第一に考えている人でした。
 それが芥川龍之介にもわかった。それで受け入れたのですね、たぶん最初見たときはカチンと来たかもしれないが。まあ編集者vs文学者の火花散る戦いですわ。決して、お金が欲しかったわけではないと思います(←怒られるわw)。

 だから、三重吉という人は、芥川ですら認める優れた編集者でもあったということになります。もちろんその腕が雑誌の隆盛に大いに活かされたでしょう。編集長としても、雑誌全体の企画や事業としての雑誌発行を成功させ、辣腕だったようです。
 安定した発表媒体があれば、作家は安心して寄稿できます。ぶっちゃけこれもビジネスなので、数誌も児童文学誌があれば、それは当然優れた才能がどんどん集まってくるわけなので。

 宮澤賢治も、この「赤い鳥」は創刊号といわず、毎号読んで、大いに刺激を受けていたことでしょう。まさしく日本の文学を大きく飛躍させた、革命的な雑誌だったといえるのではないでしょうか。事実上、これがたった一人の人間の問題意識から始まったのだから、驚きです。
 三重吉の「有言実行」は、およそ物を作っている人間なら、大いに見習いたいところです。……自分としては、せめてその心意気くらいは(w)。

『赤い鳥』創刊号を入手した

 今回はまず最初にフェイクニュースのお詫び(w)。大正~昭和初期の児童文学雑誌『赤い鳥』について、創刊号の巻頭作は芥川龍之介、と2回ほど書きましたが、この度これが誤りであったことがわかりました。
 実際の『赤い鳥』創刊号(復刻版)を入手して確認したところ、なんと……これまた文豪の北原白秋でした。芥川龍之介は掲載順3番目でした。なんでこんな勘違いしていたんだろう。

 そして2番目は誰かというと……実際の目次をご覧下さい。

 ひぃぃ……島崎藤村!? は? いやいやいや。

 そして、主宰の鈴木三重吉(漱石の弟子)のあとの名前を見て下さい。
 い、泉鏡花!? ワオ、なんだこの雑誌! これ、児童文学雑誌ですからね……。どんだけ文豪引っ張ってくれば気が済むのか。この豪華メンバー、胸やけしそう(w)。

 真面目な話、当時の鈴木三重吉の児童文学への情熱は大変なものだったようで、子ども向けの書物(および唱歌)に低劣なものが多く、このままでは日本の子供達の未来が駄目になってしまう、という強い危機感と怒りがあったそうですね。これに多くの文学者や音楽家、画家が賛同して、文学史の中でも例をみない巨大な運動になっていく。その結晶がこの『赤い鳥』という雑誌だった。子どもたちのため、だからこそ、超一流のものを、というのが合言葉だったそうです。
(表紙も素晴らしい)

 最盛期には、他にも数誌の児童文学誌が出ているような状況でした。
 そんな文学運動も、鈴木三重吉の死(享年53)とともに灯が消えたようになり、終っていくわけです。開戦前夜ということもあるが、この雑誌も他の雑誌も消えていったのですから、いかに力と情熱に溢れる人だったか。
 自分の記憶に間違いがなければ、宮澤賢治も投稿欄(読者欄)に名前が出たことがあったはず。そんなこともあって原稿依頼に繋がるのですが、時代の制約から没になってしまうのだから、本当に切ない。(他の児童文学誌だったかもしれないが)

 しかし、芥川の「蜘蛛の糸」はこの雑誌が初出だったのですね。おいおい……もうこの創刊号だけで「その時歴史は動いた」だよ(古い?)。

 これだけの文学運動を成功させていくんだから、やはり当時の文学者たちの情熱と力量は超ド級でした。日本文学の基礎がどんどん作られていく時代だったのですね。

 今回復刻とはいえ、実際の創刊号を見てみて、いろいろな発見がありました。やはり現物にあたるということは大切なのだな、と。

ガソリンスタンド閉店

 ちょくちょく行っていた近所のガソリンスタンドが、正月くらいにリニューアル工事後、再オープンしていたんだけど、先日行ってみたらなんと3月末で閉店のお知らせが。大通り沿いの絶好の場所なので、客の入りが悪いってことは考えられないんだけど、もしかして売上右肩下がりで見切りをつけたのかしらん。個人店ではなくチェーン店みたいなところだが。(パンデミック前のことです)

 考えたら、車も売れなくなっている、そして電気自動車やら水素自動車やらも出てきてるし、これからどんどんガソリンスタンドも経営が苦しくなる一方なのかもね。安売りやら原油の乱高下で利益が薄い商売だと聞くし。そういえば、近所の他のスタンド2軒もここ2~3年で廃業してしまった。先日の整備工場の廃業もそうだし、車産業ってのも今激変期なんですね。堅い商売だと思ってたが、時代の流れは怖ろしいもんです。トヨタでさえ今のままじゃ駄目なので大改革するって言ってますからね。もう国内の雇用すら維持できないんじゃないだろうか。ロボットやら大型ドローンの製造でも始めれば別ですが……。

 日本、コロナ騒ぎを別にしても、このままだと沈んでいきますよ。たぶん政府やら何やらを当てにしては駄目で、民間の一人一人が自覚を持って「生き抜くため」の戦闘モードに入らないと。それは起業かもしれないし、理不尽な政策やらへの本気の抗議かもしれない。たぶん昭和の高度成長期前~中期くらいの経済規模まで縮小していくんじゃないか、そして世の中の雰囲気も同じになる。昭和世代としてはそれはそれで楽しいが、平成世代にはキツイかもしれない(w)。とにかく流されるまま、誰かが何とかしてくれる、みたいな生活態度ではいけないでしょう。

 もう今回のことで、いかに日本政府が頼りないか、ということは皆わかりましたよね? 昭和の驚異の経済成長も、焼け跡から奮起した「民」の頑張りが最大の原動力でした。政府なんてのははっきり言ってなにもしていない。敗戦で、もう日本政府なんか信用するか!日本をこんな地獄に叩き込みやがって、という想いが一人一人の胸にあったのです。
 状況はきわめて似ています、今は飢えないだけまだマシです。(ジブリの「火垂るの墓」ではないが、終戦後も親を亡くし浮浪児となった子が、バタバタ道端で死んでいったりしたんだから)

 燃え盛るような情念・情熱を持って、日々を生きて参りましょう(w)。国に殺されてなるものか、という意気です。

(しかし、それはそうとここ2~3日熱っぽい。たぶん花粉症によるアレルギー反応だと思いますが、軽いめまいもするしな~。もともと病弱男子なので。しかし仕事と音楽制作は絶対にやめないのであった)

唱歌と童謡

 童謡はもちろん作詞・作曲者がいて、著作権保護の対象ですが、いわゆる唱歌(文部省唱歌、いまなら文科省?)はパブリックドメインの扱いらしいですね、国が音楽教育のために依頼して作ったものなので。といっても童謡も著作権保護期間がきれたものがたくさんありますが。
 で、唱歌や童謡を聞いていて思うことは、これは旋律(メロディ)の音楽なのだな、ということです。アレンジどうこうというものではなく、簡単な伴奏だけでも成り立ってしまうし(それほどメロにも詩にも力がある)、そういう風に作られている。学校などで、不慣れな先生でも簡単に伴奏できるように作曲してあるし、子供にも簡単に歌えるように、譜割りも難しいものはない。(だから、作曲は案外難しいのですよ、これだけ縛りがあると似たメロも出来やすいし)。

 ちょっと戻るけど、今残っている唱歌で、そもそも作詞作曲者がはっきりしないものもたくさんある。当時はそれほど著作権意識って作り手にもなかったのですね、楽譜なんかも勝手に第三者が出版してしまう状態だったらしいし(w)。楽譜が出れば名誉だろ、くらいの感覚だったのかもしれない。

 で、まあ、唱歌・童謡も、普段歌わないアーティストさんが歌うと、その方の日本人としてのルーツに触れた気がして、これはなかなか良いものなのですね。旋律の音楽だから、ってのもある。今のPOPミュージックはそうじゃないものね。(ラップは旋律というより、台詞だと思う)。

 余談、明治~昭和初期に政府が国の事業として唱歌をたくさん作ったのですが、今残っているものはともかく、当時は酷い出来のものもどうもたくさんあったらしい。
 それに怒ったのが当時の心ある文学者・鈴木三重吉で、このままでは日本の子供達が可哀想だ、というので創刊したのが名高い児童文学雑誌「赤い鳥」(創刊号巻頭は芥川龍之介)。童謡(今で言えばマルチメディア展開)も同時に創作していったことから、ここ発で今スタンダードになっている曲が山のようにあります。これが一大文学運動・童話童謡ブームに繋がったのですが、宮澤賢治も実はこのブームの中にいて創作を始めた、と言ってよいと思います。
 まあこういう人が本物の「国士」だよなあ、有言実行だし。後期は戦時体制の陰が色濃くなり、お上の干渉を防ぐのに苦労したらしい。賢治の詩がこの雑誌で没になったのも、どうもそのせいだったとのこと(載せてしまうと検閲のきっかけになるので)。
 それはともかく、賢治作詞・作曲の「星めぐりの歌」は傑作ですね。昔行った花巻駅前で夕方に流れていたなあ。

デモ曲追加・ニュー演歌

 得意分野→演歌としている癖に、デモ曲がなかったので1曲作ってみました。

「空蝉」

 いわゆる「ド演歌」(業界用語、トラディショナルな演歌)ではなく、POPSの要素があるニュー演歌とでもいうべき曲です。現代の演歌は、シンセや歪んだエレキギターをフィーチャーした曲もあるし、サウンドも格好良かったりするので、その辺りも踏まえつつ。ブラスは昭和の歌謡曲っぽい音にしてみました。

 今回は、巴一葉さんという大変達者な方に歌って頂きました。正直ここまで演歌が歌える方は今時珍しいんじゃないかと思います。

 演歌やムード歌謡は、まだまだ可能性の大きい分野。歌謡曲もそうですが、いわゆるJ-POPにはない世界を持った曲が、あまり聞かれなくなったのは寂しいですね。微力ながら復興に力添えできたら……などと夢想しております。

黄色い粉+上納金

 ……マトリが動くようなヤバイあれではありません(w)。でもゼイトリは動くかもな? 花粉と確定申告の季節が一挙にやってきやがりました。目がチカチカしたりクシャミが出たり。はぁ~。
 去年は花粉飛散がかなり遅かったんで油断してたが、今年は重なった……。誰が日本中の山に杉を植えたんですかね。実は利権になっていて変えるわけにはいかない、などという話もあり、この国は一度破滅の道に入ったらもう軌道修正なんて誰もしないんだな、と。コロナウイルスのこともあるし、春が来るのが非常に不安。たとえ感染しても抵抗力で無発症をせめて祈っているけど、虚弱体質にだけは自信があるので(w)。皆さんとお別れかもしれません。昔O157的なやつにも感染して死にかけたからな。(今度のも、対処療法しかないらしい。つまり薬では治らないってこと)
 あとせめて600曲くらいは書きたいので、それまではウイルスこないでくれ。でもマスクでも防げない、目の粘膜からも空気感染するって話だからなあ……。マスク+プラグラス(花粉用のやつはもってる)で頑張るか。このいでたちで銀行行くと完全に強盗。逮捕されます。

 青色申告の準備は、今年はかなり進めてきているんですけどね。これも今後何年かかけて更に面倒になってくので(インボイス制度等)。

 以下余談、昔(戦前)はいわゆる芸能活動は、なんと無税だったそうですね。その代わり鑑札が必要だったらしい(お上への登録制だよね)。歌手の故・淡谷のり子さんの話として、放送作家のはかま満緒さんの本に書いてありました。だから昔の方がよかったとボヤいていたらしい(w)。他にも……。

 淡谷さんは、戦局が厳しいときも(芸能人の矜持として)化粧するのを止めなかった。それでよく街で愛国ナントカ婦人会の人に絡まれたが、「私の顔は化粧でもしてないと見られないの」などと言って(w)、外国化粧品を法外な値段でツテで買っていた。その代わり慰問で呼ばれれば、どんな最前線でも行ってミカン箱の上ででも歌った。いつも兵隊からは大喝采だったそうです。戦後GHQから呼び出されて行ってみたら、軍に出した始末書の束が電話帳くらいになってたそう。(時代が変わっても軸がブレない人って格好良いっすよね)

秋吉敏子さんの心構え

 この前深夜にTVをつけたらETVで「SWITHインタビュー達人達」という対談番組をやっていて、この回のゲストがなんとジャズピアニストの秋吉敏子さんと、女優の松坂慶子さん。
 秋吉敏子さんといえば、業界最長老のゴッドマザーにして、文字通り音楽界の生きるレジェンドですが(なんと御年90歳)、全然見えないしまだアメリカでバリバリの現役、番組でもピアノを弾いておられましたが、全く衰えがないですね~。
 そして松坂慶子さんがまたお綺麗でして、ご主人はジャズミュージシャンですから、そしてやっぱりお綺麗ですし(しつこいw)これは良い番組が見られました。って言っても全部見られなかったけど、秋吉さんがすごく印象的なことを言っておられて。

 番組は、まず松坂さんがニューヨークのSOHO地区にある秋吉さんのご自宅を訪問するところから始まりました。
 ここで秋吉さんが言っておられたのは、自分は(音楽家として)まだまだだと思っている、でも今日よりは明日は1日分進化しているから、1日1日良いミュージシャンになっている、ということだったんですね。自分はまだまだ、と思うからこそやっていける、慢心してしまったらそこで終り、まだまだだからこそもっと腕を磨こうと生きていける、とおっしゃる。現役音楽家として70年にも及ぶプロ生活を過ごしてきた方がこうなんだから、これは僕らは絶対見習わないといけないことなんでしょうね。
 それでも、やはり年齢のことがあるから、1日寝てばかりという日もあるそうですが。歳をとっても、それだけ経験を積めばより良いミュージシャンになっていけるはず、ということです。凄いなぁ~。

 秋吉敏子さん、アメリカでのデビューが1953年なんですね。もう驚くなかれですよ、昭和53年じゃないよ(笑)、ガチガチのモダンジャズ全盛期、普段うんちく三昧のジャズマニアがぶっ倒れるよ。
 戦後、九州のジャズクラブで演奏をはじめて、その後東京へゆき、そこで来日したあのオスカー・ピーターソンに見出され、渡米してレコードデビュー。
 当時、向こうのTVに出てたときのビデオが流れてましたが(よく残ってたな)、着物を着てクイズ番組に出演、この日本から来たお嬢さんの職業は何でしょう、みたいなやつ。正解後、スタジオでピアノトリオ演奏するわけです。こういうのは嫌う人は嫌うかもしれませんが、秋吉さんは宣伝になると思ってどんどん出演したらしい。実際それで結構名が売れたそう。そのあたりは流石にショーマンシップ溢れるジャズメンって感じですか。
 ご主人はサックス&フルート奏者のルー・タバキンだし、秋吉・ルーの双頭ビッグバンドじゃ、そりゃお客来ますよ。二人いっぺんに見られる上にビッグバンド、一粒で三度おいしい状態だし。
 うーん、このあたりで時間切れで全部見られなかったのよ、残念。

 以下はおまけ。秋吉さんといえば、「ジャズと生きる」という自叙伝がありますが、この中の渡米後初日夜のエピソードがなかなか衝撃です。知り合いのジャズメンに連れられて、ジャズクラブに行った。演奏していたのはなんと帝王マイルス・デイビス。ビバップばりばりの頃でっせ、1953年なので。
 そしたらマイルスが「一緒に演るか」とゲストに誘ってくれた。ところが緊張とパニックのあまり「NO!」と言ってしまった(笑)。
 その夜のマイルスは「おれって本当は…嫌われているのかな…」などとカウンターで俯いて独りバーボンをあおっていたという。いやそれは嘘ですが。
 怖い怖い、アメリカでデビューするってこういうことなんだよなあ、と。その後、マイルスとは無事共演したそうですが。

 もうこのまま10年でも20年でも現役でいて頂きたい、日本が誇る世界の秋吉敏子さんのお話でした。

ソニータイマーは都市伝説か?

 ソニーの電化製品に内蔵されているという自動故障誘発タイマー、いわゆるソニータイマーですが、確かに自分も思い当たるフシはあって、かつて買った「DoDeCaHorn」というラジカセが、本当に1年経って保証期間切れ直後に故障しやがりまして。結構奮発したのに、修理すると高いのでそのまま不燃ゴミに出しましたが(今なら引き取りになるのかな?)

 あと、友人の家にあったソニーの大型TVが滅法調子が悪かったらしく、何度修理に出しても次々に故障して手を焼いたそう。これはたまたまそういう個体に当たってしまった可能性が高いけど。

 もっとも、本当にソニータイマーという部品が入っているわけではなく、部品の耐久性が低かったりすると、ちょうど1年とかの期限で故障するのでしょうね(ただ、工学理論的にこういう設計にすることは可能なので…)

 大昔のソニー製品はそういった意味では本当に優秀で、親父が(主に短波で日経を聞くために)持っていた「Skysensor 5800」という多バンドラジオなんて、軽く10年は持って、ガリもほぼ出ず20年以上動いてたと思う。
 これで海外の短波局に受信報告書を国際郵便で送って「ベリカード」とか貰ってたなあ(なつかしー、なんのことかわかる貴方は昭和世代ですね?笑)

 ある時期のソニーは品質管理を随分ないがしろにしていて、それが「ソニータイマー」と揶揄されるような短寿命の製品乱発になっていた可能性があります。
 「ソニータイマー」伝説をソニー幹部が公式に否定して以降、買ったラジカセは結構5年以上持っているしな。

 かつては世界制覇をしたソニーを始め日本の電機メーカーも、今では見る影もないですが。こういう品質管理、メカニック、ファームウェアの設計製造の優秀さは、日本の電子楽器メーカーが、今では一番色濃く伝統を受け継いでいるかもしれませんね。

 再び日本の製品が世界で輝くときが来るだろうか……。三菱重工のジェットなんかボロボロでいつまで経っても完成しない、一方ホンダジェットは量産・売れまくっている、なんて状態を見ると、政府と癒着結託するような大企業は駄目で、ベンチャー気風や独立独歩の企業からこそ、つまりお役人や政治家の目の届かないところから、そういうイノベーションは始まるのかもしれません。
(インテルの最初のCPU設計に参画したのは、日本のビジコンという中小企業のエンジニアでした。インテル自体もド田舎のポンコツ半導体会社だった時代)

 まあとはいえ、今のソニーは金融屋だったりコンテンツ屋だったり……そっちがほぼ本業なようですね。時代に合わせて変っていくべきところは、躊躇せずそうすべきということですか。

(ソニーのオーディオ用電子タイマー、これが本当本家本元の「ソニータイマー」が実家から出てきて、電源を入れたらなんと動いたので、驚きのあまりつらつらと書いてみましたw こいつ、ガチで40年前の製品だぞ……。
 ちょっとカッコイイこと言いますと、自分の中の音楽への想いもこんな感じですね。ちょっとカッコイイこと言いました)

続・お宝雑誌発掘

 実はひとつ前に書いた80年代の音楽雑誌「KB Special」の件、翌月号も見つかりました(1988/6)。2号続けてCASIOPEAの最新アルバム「EUPHONY」が特集されていたのですね(それだけ音楽的にも面白い作品だったといえそう)。
 紙面に登場されているのは……

 当時のトレンディードラマに出ていた俳優さんです、って言ったら今の若い子は信じますね(w)。
 もちろんリーダーでギタリストの野呂一生さんです。今も昔もカッコイイ。ここで色々書くのも恐れ多いですわ……。文字通り日本を代表するミュージシャンのお一人です。

 ギターのコードプレイで、テンションノートがハイに行くほどコードの機能が強くなるって話。キーボードとの比較で、どうしてもボイシングに制限が出てくるので苦労するって話。作曲のとき、転調はするが基本となる調の調性感は大切にしているって話。あまり転調してやろうと思って転調しないそうです、あくまで楽曲の流れを見て、一時転調とか臨時転調とか。(やっぱり、これがカッコイイのですね)
 前回も出てきた「m7(b13)」は野呂さんが発明された表記とのこと。

 実はこの特集だけでなく、別の新製品紹介のページでYAMAHAのMIDIギターシステムG10のレビューがあり、そこで野呂さんが実際の利用者として登場されています、
 このG10、「EUPHONY」の中でも使われていたのですね。「SENTIMENTAL AVENUE」や「SOLID SWING」でTX802やRoland D-50をドライブしていたとのこと。G10は純粋にMIDIコントローラーに絞った製品で、今のようにピックアップでギターとしても使えるものではなかったようです。またハマリングオン等、細かいテクは拾えなかった。ただしチョーキング等でクォータートーンを出すのは可能だったらしい。

 この号、表紙は坂本龍一さんでした。当時からオーケストラと共演するスタイル。もうこれだけでも30年以上の積み重ねがあるってことになりますか。

 そしてKORGからは驚異の新製品が……!

 うーん物凄い時代だったよ、80年代。実はこの頃の音楽雑誌は一杯実家に取ってありました。また面白い記事があったらシェアします。