ちょっと前ヤフーニュースで読んだ記事、記憶頼りにボヤッと紹介。
ある女性作詞家さんのインタビュー記事で、その方は匿名で登場していたが、モーニング娘の時代から幅広く作品をアーティストに提供して専業でやって来た方。やはり日本では専業作詞家は少ないそうです。
元々業界に入ったのは、アマチュア時代ツテがある知り合いに歌詞を書いてみないか、と言われ提供して、いきなり採用されてそのままずるずると……という感じだったそうで、才能があったのでしょうね。曲先でスラスラ書ける方のようです。
ただ、年々要求は厳しくなっていて、良い歌詞が出来たと思い、アーティスト側・制作側から好評にも関わらず、例えばグループの誰か一人がここはちょっと……など言われると書き直し。そんな展開が増えているとか。依頼の時もザックリし過ぎているとか。
また、サブスクになってやはり作詞家も取り分が減り、辞めてしまった人も結構いるらしい。
この方も、アイドル向けのコンペなどでは、もう全然通らないそうです。で、今後は演歌やムード歌謡にも提供したい、というご意向。
もう一点面白いのは、兼業作詞家が増えたという話。たとえば業界で他に仕事を持っている方だったり、サラリーマンや学生だったりでコンペに通った、というパターン。学生だと就職と同時に辞めてしまったり、という形になるそう。
ここで自分の見解を書けば、やはり従来の形での業界のあり方って完全に限界なんじゃないかと思います。といってこれが次世代の形だ……って示せるわけじゃないが。
最近読んだ興味深い記事から、メモ書き。
記憶頼りなので実名は伏せますが、昭和の時代に活躍したある著名アイドルグループの話。事務所はグループのデビューのために作ったそうで、最初は資金難で困窮した。助けてくれる人がいたが、相場関係者だったらしい。グループはその後売れに売れて、一説では350億とも500億ともいわれる金額を稼ぎ出した。事務所にも、少なくとも50億は入ってきた。……が、グループ解散の時には、本当に資金がすっからかんになっており、事務所も廃業。何にそんなに使ったのか。
事務所の社長は、グループのメンバーに、300万の月給を払っていた。マンションも買い与えた。それが当然に思えるほど売れていた(ただ睡眠時間は1時間の時もあり、帰れないことも多かった)。
また、賞レースに食い込むため、芸能界の実力者への付け届け、接待ゴルフ、豪華な食事……と、湯水のように「営業費」を使った。それで本当に資金を使い切ったそうです。(もちろん曲も超一流の作家陣に依頼、プロモーション費も膨大…)
自分の感想としては、昭和の時代だし、さもありなん、と納得してしまいました。こうなってくると、音楽といっても普通の(モーレツ)営業と変わらないなあ、という感じですね。
(驚くべきことは、この営業費は爆発的に売れた後に掛かっている、ということ。賞を獲るのはそれほど大変ということでしょう)
余談、グループメンバーのインタビューによると、当時の記憶は全くないそうです。忙しすぎて全て記憶が飛んでいた(w)。ただTVやステージで歌って、振り付けの練習して、レコーディングして……それが延々ループしていて、止まったと思ったら解散していたらしい。怖ろしい昭和アイドルの弾丸営業ぶり。売れるはずですが、よく過労死しなかったと思います。(当時売れたアイドルは、みんな同じこと言ってますね)
阿久悠さんのエッセイ本「愛すべき名歌たち」到着。
該当箇所を見てみたけど、自分の知っている話はこのエッセイだけの情報ではなかったっぽい。とりあえず大筋の経緯は同じです。スタジオでスタッフが待機……という話は、どこか別のエッセイだったか、ライターの記事か、あるいはTV番組か。ディレクター氏が来たのは、阿久さんが仕事部屋にしていたマンションの部屋だったとのこと。そして工場締め切りまで24時間しかなかったのは同じです。(当時のピンク・レディーは初回80万枚だったそうですw)
あと面白いのは、後に王貞治さんに、曲のことでお礼を言われたそう。(没曲には、一本足打法の打者は出てこなかったとのこと)
ピンク・レディーは、活動時期が’76~81年で、しかも後期はアメリカでの活動の力を入れていたので、実質的に70年代後期に活躍したグループといえそう。
今回気付いたことが2つあって、ピンク・レディーの曲も’70年代サウンドだったということ。同時期、冨田勲さんはシンセサイザー作品を発表し自分はリアルタイムで聞いてましたし、ウェザーリポートもこの頃が最盛期でやっぱり聞きまくってました。
洋の東西はあれ、この時期は本当に音楽がひとつ頂点を極めていたんですね、当時はそんなことは判らなかったが。
そして、ピンク・レディーのビートを強調したポップな楽曲、歌いながら踊るスタイルというのは、実はすごく新しかった。(女子&児童からの支持が物凄く大きかった印象、皆振り付けを真似て踊ったのでw)
そしてこのスタイル、「誰か」を思い出しませんか? そう、マイケル・ジャクソンですよ。ポップスのパフォーマンスにダンスを持ち込んだのはマイケルだと言われますが、同時代にピンク・レディーもやっていたんですね。(もしかするとちょっと早いかも?) 今では当たり前になった光景ですが、彼女たちがその走りといえそうです。
前回の続き。
ご存知の方も多いでしょうが、ピンク・レディーはデビュー当初から作詞・阿久悠さん、作編曲・都倉俊一さんという、ゴールデンコンビで大ヒットを連発していました。だから「サウスポー」もお二人の手になる曲なのですが。それについて、阿久悠さんが意外な秘密をエッセイで明かしておられたのですね。
もう時効だから書くけど……みたいな出だしだったと思います。ピンク・レディー解散後10年は経っていた頃かなあ。
いいですか、皆さん、心して聞いてください。たぶんこの話あんまり知っている人はいないと思う。「サウスポー」は、作詞・編曲・レコーディングから、ミックスダウンまで、つまり楽曲制作のほぼ全ての過程を、なんと24時間で終らせた曲だったのです。
(たぶん直前の作曲作業まで含めても、48時間掛かっていない…)
マスタリング(当時はレコードなので原盤製造機で物理的に「盤」を作ったはず)まではどうだったか記述はなかったと思うが、工場にマスターを納入したところで説明が終っていたので、そこは任せたかも。
あのミリオンセラーの大ヒット曲が、そんな短い時間で作られていたなんて……。ね、驚いたでしょ? 何度あの曲聞き返してもそんな火事場のような状態で制作されたとはわかりません、楽曲の質はどこをとっても超一流の仕事で非の打ち所はない。それが、ねえ……。阿久悠さんの言葉でなきゃ、自分も信じないと思います。
なんでこんなことになったのか。なるべくエッセイの内容を思い出しつつ、書いてみます(細部が違っていたらあらかじめお詫び)。
ピンク・レディーのプロジェクトもすっかり順調で、新曲も制作し終えて、阿久悠さんはある日自宅で寛いでいたそうです。そうしたら、夜になってプロデューサー氏がやってきた(お名前失念、面目ない。以下P氏とします。ディレクターだったかも?)。そこで衝撃的なことを告げられるのですね。実は、もう新曲のレコード工場締め切りまで24時間しかないが、今回の曲にどうしても納得できなくなったから、今から作り直して欲しいと……。
仰天ですね。阿久さんもさすがに面白くなかったそうです。が、P氏が言うには、もうスタッフ全員説得して、スタジオで都倉俊一さんやピンクレディーの二人、そしてミュージシャンやエンジニアが全員待機している、というのです。ここまでされたらやるしかないですね。都倉さんが急遽作ったメロもできていて、用意周到持ってきていた。
それで覚悟を決めて、徹夜で歌詞を書いたそうです。書きあがったのは明け方。メールどころかFAXすらない時代なので、バイク便でスタジオに歌詞を送った。
スタジオでは、届いた歌詞を元に都倉俊一さんが大車輪で編曲作業をする。出来上がったメロディと歌詞を持って、ミー&ケイさんは別スタジオで歌の練習。出来たアレンジのパートから即演奏してレコーディング(ストリングスやブラスはパート譜もいるので、助手が書き起こしたり、ってこともあったかも)。それをエンジニアがミックスして……と、全スタッフ本当の不眠不休だったそう。流石にミー&ケイさんは、合間合間に休んでいたそうですが、でないと声も出なくなるもんね。
それで歌入れがあり、レコーディングが終ったら、ミックスダウンして2mixが完成(これがマスタリング前のいわば「仮マスター」)。無事締め切りまでに工場にマスターテープが送られました、ここまで24時間だったそう。
綱渡りというかなんと言うか……これを読んだ時の自分の感想は「全員超人か!?」でした。それがあの特大ヒットにつながるんだから……。単にミリオン行ったというだけでなく、当時は本当に日本人なら誰でも知っている曲でした。(まあ、ピンク・レディーの曲は全てがそう、なんだけど)
阿久悠さんが書いておられたのですが、当時は面白くなかったが、それでも後で冷静になって考えたら、没になった曲はちょっと守りに入っているような面もあって、出来は悪くはなかったがあんな大ヒットには繋がらなかっただろうとのこと。
まあ、それでもこの件で本当に凄いのは、プロデューサーの方ですね。なぜか締め切り直前に、今のままじゃダメだと判ってしまった。そこで普通やり直しさせるか……と思うんだけど、この制作陣・ミー&ケイさんなら、短時間でもっと良いものが出来ると信じていたし、分かっていた。見事にそれに全員が応えたわけですね。丁半博打というか、出来ると信じていたから博打ではないんでしょうけど……。万一前より悪くなったら責任問題なので。プロデューサーの権限の大きさと同時に、責任も大きいんだなぁと、エッセイを読んで音楽マニア時代の自分は感心していました。
以上、昭和の時代の偉大な業界の物語でした。おっと、立看板はどこへ行ったかって?
そこで最初に戻るのですが、中学生の自分が「サウスポー」の立看板に覚えた違和感。そこへこのエッセイが繋がるのです。つまり、気のせいか「時間(準備)不足」と感じたのは、実は正しかったのだ、とw こんな締め切りギリギリに上がった曲では、じっくりポスターの写真を撮る(&企画を練る)時間もあるわけがない。どうですか、なかなか鋭い子だったでしょう?……ということが言いたいのではなく(汗)、この「サウスポー」の偉業をぜひ広めたいと思い、書いた次第です。
(例によってWikipediaを調べてみたら、この没曲はなんと阿久悠さんのCD-Boxに入っているらしい。一部がCMに転用されているとのこと。没曲もサウスポーというネタだったと書いてあるが?w やはり中学生の眼力はこんなもんか(呆)。でも撮り直した可能性もあるしなあ。一応、ディレクター氏のお名前も書いてありますが、エッセイではどうだったか確認できないので、今回はこのままにしておきます。若干経緯も違うようだ、阿久さんのエッセイ本を突き止めたので現在到着待ち)
(今回、当時のジャケットやポスターの画像を検索してみたが、どうもどれも違う気がする……。宣材ってたくさん撮られますからね)
少し前にこのブログで、昔あった繁華街の小さなレコード屋さんのことを書いたけど、それ関連の別の話。駅前の超一等地、しかして戦前からある長屋みたいな建物にずらっと間口の狭い店が並んでいる場所でした。その中の一軒がうちが出していた店で、隣がレコード屋さん。年中ヒット曲を流していて、自分も親の店を手伝いに(冷やかしに?)に行った時は、それを聞いていて、流行歌は自然と覚えてしまっていた、今となってはそれが役に立ってるなあ、という話。
覚えたのは曲だけでなく、このお店は立看板をいつも出していたので、ヒット曲や売り出し中の歌手のポスターはいつも貼ってあり、子供ながらいっぱしの立看板ウオッチャーにもなってしまっていた(w)。
ピンク・レディーがデビューした時は、自分は中学生くらいでしたが、「おっ、このお姉さんたちは売れそうだな」と、立看板を見ながら思ってた(本当よ?)。もちろんレコード会社の猛プッシュがあったので、よく流れてましたよ「ペッパー警部」。ご存知のようにその後も大ヒットを連発していくわけで、その度に看板のポスターも貼りなおされていくわけですよ。宣材の変遷を常に見ていたんですね。
で、ある時、ピンク・レディーの新曲のポスターを見て、なんだか得も言われぬ違和感を覚えたのです。曲はあの「サウスポー」でした。発売当初から爆発的な大ヒットになっていくのですが、どうもこれがなんだか変。ミーさんとケイさんが野球帽にピンクのユニフォームでグローブとボールを持っている(かどうか?)構図だったと思う。有体にいうと、どうもこのポスターに若干の「時間(準備)不足」感を感じ取ってしまったのです。もちろんお二人はアイドルで当時売れに売れているから、凄いオーラでしたが、むしろ衣装やライティング・構図などがそのレベルに追いついてない気がした。ずっとピンクレディーの宣材を見てきたからわかることです。何でだろう、まあ自分の勘違いだろうな、などと当時は思ってました。
まさかその理由が意外なところにあり、それを後年読むことになる阿久悠さんのエッセイで知ることになるとは、その時は夢にも思いませんでした。確か朝日新聞夕刊の連載だったはず。阿久悠さんは作詞だけでなくエッセイも多数発表されていますからね。
長くなりそうなので続く。
今回は「機動戦士Zガンダム」の主題歌の話。いわゆるアニソンですね。当時は珍しかったと思うけど、OP曲が前期と後期で変わるのですね。(EDは通期同じ)
前期が「Ζ・刻を越えて」という曲で、歌は鮎川麻弥さん。驚くなかれ、これ作曲はニール・セダカ。そう、あの往年の洋楽の大スターです、「おお!キャロル」や「恋の片道切符」の。びっくりでしょ?(作曲家としても活動) しかも当時も思ったけど、このテーマ曲、アレンジが滅茶苦茶カッコイイんですわ。キメキメのシンセのリフが入るわ、ストラトのカッティングにハイパワーのブラスセクションがくるわ、今聞いても(テンポこそやや遅いが)ハマってる。歌詞は富野監督節が炸裂ですね。(アレンジは渡辺博也さん)。
エヴァンゲリオンも主題歌が滅多やたらにカッコよくてアニソン革命起こしたと言われてるが、そんな面でもやっぱりゼータの方が早い。
ED「星空のBelieve」もやっぱりニール・セダカ。これまた非常にEDに似つかわしい曲でスルメ曲。
当時はわからなかったけど、今にしても思えばこれまたバブル時代の予算のなせる業だと……。
と、まあそんなことを思っていたんですよ、つい先日までは(w)。今回この記事を書こうとWikipediaを調べてみたら驚愕の事実が。この2曲、ニールセダカ作曲ではあるものの、なんと彼の過去のアルバム曲だったというのです(!)。ええ~?そ、そんな……。これだけ大プロジェクトのアニメに、そんなリサイクルを? いくらなんでもガセだと思ったが、曲名をYoutubeで調べたら、なんと「その曲」がありました。ずばり、ゼータのOPとEDでした。ひ、ひでえ……(笑)。どうしてこうなった。
当時の事情は関係者にしかわからないけど……。普通はこういうことはしないよなあ、と。なんか余程の事情か?
完全な憶測だけど、曲の発注が締め切りまでタイトで(業界でありがち)、向こうさんが無理だから過去曲でどう?って言ってきた可能性はある。ニールセダカ起用は、富野監督のリクエストだったと、どこかに書いてありました。監督世代だと、セダカはずばり青春の音楽だったでしょう。
ま、原曲はアニソンぽさもキメっぽさもないから、これはアレンジャーの方の腕が素晴らしかった、というしかないのではないでしょうか。完全に世界レベルのアレンジと演奏っすよ。(Bメロのブラスのクレッシェンドなんか最高!)
いやーバブル怖いね、この時代はフュージョンも世界進出していたし、日本の音楽が一個頂点を極めたのは間違いない。
で、まあ以上が前期OPの衝撃の事実ですが。実はこれだけでは終らない。後期ED曲「水の星へ愛をこめて」も、今回ゼータを見てて仰天モノでした。歌は、当時新人アイドルだった森口博子さん(デビュー曲)。いえ、そこは衝撃ではありませんよ、有名な話ですから。
実はこの曲、今の自分の耳で聞いて判ったのですが、いいですか、もろに「ムード歌謡」なんですよ。いやあ驚いた。この(ちょっと素朴さ漂う)センチメンタルで日本人好みのメロディ、そして歌詞といい、アレンジといい、完全にムード歌謡の世界です、これ。ガンダムファンの間では歴代一の名曲との呼び声高いそうですが(実際、NHKの人気投票で1位をとっている)、まさかここにムード歌謡が登場するとは。
Youtubeのバンダイ公式でゼータ見てて、突然この曲が始まったときの驚きといったら。まあ腰が抜けそうでした。
そして、なんとこちらの曲こそが、ニールセダカの書き下ろし曲、正真正銘ゼータのために作られた曲だったのです。ぬおお。
つまり、ムード歌謡っぽい曲が上がってきたので、それっぽい歌詞とアレンジがついて今の曲が完成した、ということだと思います。(作詞は大御所・売野雅勇さん、編曲はこれまた大ベテラン馬飼野康二さん。磐石の布陣、お二人とも歌謡曲の世界の達人です)
こういう発注をしてこうなったのか、それとも……って話は関係者に聞いてみないとわかりません。それでもこれはまた当時驚天動地の新OP曲だったと思います。
一度、このOPを当時見た覚えがありますが、ED曲感が凄く強くて、非常に違和感がありました。少なくともロボットアニメのOP曲という感じはゼロ。これを平気で流すってのは、あるいは引き寄せるってのは、やっぱり富野監督という人は今更ですが只者じゃないなあ、と。
そして、このアニメ界のムード歌謡、よく聞くとメロはどこか’50~60年代洋楽に通じるものがあるんですよ。それこそ「恋の片道切符」じゃないけれど。だから、確かにセダカの世界でもあるんですね。ムード歌謡は日本にローカライズされた洋楽だったのだから、それも納得できます。(こんなところでも自説を補強できた)
ゼータは1985年だから、ムード歌謡衰退期にこんな良曲が誕生し、そして今でも歌い継がれているとは。なかなか稀有な話です。(森口博子さんは、この曲を含むガンダムのカバーアルバムが大ヒット中なのは、ご承知の通り) ムード歌謡は死なず、アニソン界で脈々と生きていた、というわけ。
以下、蛇足。この「水の星に……」は、明らかに劇中に登場する敵方の強化人間の少女、妖しい魅力のフォウ・ムラサメをイメージした曲(今でいうと綾波レイ)。主人公カミーユとは出会った瞬間大恋愛w、敵味方だから悲恋ですが、「ねえ、頼める?……キスして」「あぁ」なんてシーンもあって、おじさんは「なんだこれ甘酸っぺー!」ってなったよ(笑)。アムロとララァは手も触れ合ってなかったのに……うーん80年代だね。
(フォウは、人でありながら人であらざる者、そして儚い生死の狭間を生きる者だから、やはりモラトリアムだ)
最近ちょっとしたきっかけで、「’80年代風オーケストラサウンド」というキーワードが浮かんで、自分で思いついた癖に、それってどういうものなのか、考え込んでいた。
試行錯誤もありつつ、しばらくしてはたと思いついた。
――ああ、これは“戦メリ”のことじゃないか(w)。って、実にそのものでした。
ヤングは何が「w」かわからないと思うけど、この時代に『戦場のメリークリスマス』という映画(大島渚監督)があって、ビートたけしやデヴィッド・ボウイが出てたんですよ。特に出演と同時に音楽まで担当した“教授”こと、今や日本を代表する音楽家である坂本龍一さん(もう業界インサイダーなので、恐れ多いですが“さん”付けです、もちろん)。このテーマ音楽が素晴らしくて、インストなのに大ヒットしてしまった(そもそも日本でインストがヒットするのって稀ですからね)。カンヌ映画祭出品作品、そして音楽は日本人初の英国アカデミー賞・作曲賞。
この、一見わけのわからない「80年代風オケサウンド」って概念を、それこそ80年代に完璧に実践されていたんですね、というか明らかにこれが本家本元ですが。
ただ、今このテーマ音楽を聞いてみると、広義のオーケストレーションはもちろんされていますが、意外というか、ほぼ全編シンセがフィーチャーされてるんですね(たぶん全て手弾きの感じ?もちろんハードシンセ)。自分の印象だともっと生楽器が入っていたように思ったんだけど、それだけアレンジと演奏が巧みであった、ということなんでしょうね。(生ピアノはメロとユニゾンしてます)
ほのかにエスニックで懐かしく、そして(当時最新の概念であった)環境音楽的な響きもある。ブライアン・イーノですね。
まあそれはそれとして、なんで長々と書いているかというと、今回その戦メリのフルオーケストラ演奏を見つけました、ということを書きたくて。教授ご本人がピアノを弾いています。素晴らしいですよ、3回ガン見した。
Merry Christmas Mr. Lawrence – Ryuichi Sakamoto HD (02-08-13)
かなりふわっとした認識で書くので、非常に心配であらかじめ妄言多謝ですが、フルオケにありがちな声部がどうこうという感じではなく、もっと音響的なところを主眼にしたアレンジに、少なくとも自分は聞こえます。「線」ではなく「面」のアレンジですね。ある意味、ポピュラー音楽(ジャズ理論をベースにした)的といいますか。作曲勢の方々にはたぶんわかってもらえると思いますが。
バイオリンでかなり高い音域でハーモニーを作って、それこそシンセのパッドのような効果を作り出しています。こんな音が出るとは、という驚き。こういう冒険的なアレンジは失敗すれば被害甚大なわけで、この結果はさすが、としか言いようがない。
だから「いかにも」な、ありがちなオケアレンジはやっていない。非常に実験的といえると思います。
原曲から引き継いで、プチエスニックだったり環境音楽的だったり。今さら自分なんかが言っても仕方ありませんが、やっぱり教授は凄いってことです。
だから、80年代的なオケサウンドを出したかったら、今みたいなところは最低限クリアしないといけない。かなり高度なチャレンジになりますね。幸い、こういう素晴らしいお手本があるので、僕らみたいな人間には有難い限りです。
(いやー、今回は書いてて冷汗が出た。これはもう、同じ日本にこんな音楽家がいて幸せってレベルだなぁ)
最近、この曲をはじめ、ちょくちょく日本の80年代音楽を聞いているのですが、あまり表だって書いている人はいないけど、80年代音楽って日本の一つの頂点だったんじゃないか。(それ以降の音楽がつまらないと言ってるのではもちろんありません)。でも、音楽で世界進出もしていたし、売上的にも(まあ時代の流れはあるが)今とは全く違って、自分のような当時の素人からみても業界全体が活気に満ちていました。
坂本龍一さん、YMOもそうだし、カシオペア、(T)スクウェアといったフュージョン勢、渡辺貞夫さん、日野皓正さん、このあたりはメインストリームジャズとも股にかけた活躍、もちろん冨田勲さんもいた。
80年代のアイドル音楽も、非常にユニークで、今や海外の若者にYoutubeで再発見されて、一部でカルト人気がありますからね。(ついでにいうと、当時のアニメ劇伴も高い評価を受けている。作家の名前が通じるほどです)当時の日本のAORも素晴らしかったが、やっぱり海外で再発見されてたりする。
これはちょっと、このあたりをはっきり意識しつつ、「今」曲を書こうという人間は、戦略的に振舞ったほうがいいかも。取り入れられるものは取り入れていく、自国の音楽を模倣するのは模倣といわれませんから、海外のをやるとモノマネといわれるが。
もちろんただの模倣でなく現在の音楽に発展的に取り入れるってことです。
あんまり80年代賛美はしたくなかったんですね、自分の青春時代を賛美してるよくいるおじさんみたいだから(笑)。だけど、考えれば考えるほど、これはただごとではない時代だったと思えてきて、こんな文章を書いてみました。
やっぱり60~70年代洋楽(AORやフュージョン含む)の盛り上がりを受けての、80年代ジャパン音楽の活況と頂点、これは歴史的にみて正しい認識なのでは。
この時代の音楽を指す良い言葉はないか考えたが、Japanese ’80(Eighties) として、Jeighties(ジェイティーズ)って造語はいかがでしょう。
ここから、今の音楽制作者は何ができるか。できることはたぶんたくさんありますね、自分はそう思います。
ある歌を歌うことで、多くの人を魅了し、目頭を熱くさせ、心に暖かいもの湧かせることができる人。それはやはり、特別な人なんでしょうね。選ばれた星の元に生まれ、それだけでなく、いやそれ以上の特別な努力を人生においてずっと続けてきた人。だからこそアーティストであり続けることができる。
様々な事情があって、かつては、どらら側にもわだかまりがあったのかもしれない。みな若く、時代は濁流だった。それでも大きな時間のなかで、それを溶け去らせ、いま吹き渡る風の中に聞こえる声々が、これが和解の宴だったと告げている。
まさしく、歴史を動かしたパフォーマンスといえましょう。そして、こんな瞬間を呼び寄せることができたのも、ずっと音楽と向き合ってきたからこそ。
ベテランアーティストの真髄を、垣間見るができました。
The song never die, the singer lives forever.
以上は、SNSや公開された一部映像をみての感慨です。
この時間、裏番組を見ていたなんて到底……しかも日本のAORセレブ特集だったなんて絶対……いえはしない(汗)。いやあ流石有名スタジオ、高価な機材が無造作に積まれてた(呆)。
そもそもBS入らないし、まさか生とは思わないじゃないですか? 肝心な局面で、一番大事なシーンを逃すとは、きっとこれはオレがそんな星の元の生まれなんだろうなあ。地上波で再放送されることを祈るのみ。
今はもう普段アニメも映画も見ない、音楽一辺倒の生活っすわ。
まあそれはそれとして――。
やはり、令和はバブル世代がひと暴れしないと始まらない時代になりそうですね。
We, the Bubble generation get hyperactive in this Reiwa period. Go ahead!
また宛先不明が続きます、好きなことしか書かないサイトなので。
しばらく前からの宿題だった(懸案とも言う?)、ピンク色のデビューアルバム、ようやくしっかり聞かせて頂きました。なんと36年前の作品です。時間が経つのはこんなに早い、まさかこのスケールの時間が自分の人生で普通になるなんて。時にバブル経済真っ只中、日本が一番平和で豊かだった1983年の世界……。
1曲目を聞いた感想は、まず声がちゃんと出ていない。全体的に固く、歌を歌いきっていない。当時FMで聞いたときと同じ印象でした。とにかくボーカルが縮こまっている。ただこれは、スーパー著名プロデューサーを始め、超豪華ミュージシャンを揃え、20歳だったこのシンガーソングライターさん、さすがに緊張したのだろうな、と思ってました。アレンジも全曲このPさん、素晴らしい、というしかない。全然古びてないし。
ところが……5曲目から印象が変わりました。あれ?ボーカルがかなり……声がしっかり出てるし、非常に伸びやかです。そのままそんな曲ばかり続き、そして11曲目で終わり。アルバム後半、かなりの力作楽曲が続きます(アレンジも相変わらず凄いが、多分それ以上に楽曲が素晴らしい。どう聞いても完全にパーフェクトなAORだし、歌詞もね(アルバム前半は、アイドルっぽいAORといえるかな?))。
もしかして、最初は緊張したけど、慣れてきて本調子になったのかな?と思ったのが1周目でした。
2周目を聞き出した途端、わかりました。これはプロデュース(の結果)だ! 最初の4曲くらいは、アイドルをいわば「演じて」(たぶん正確には「演じさせられて」)いるんだ、と。うひょー、こりゃびっくり。だから声が固い、そりゃそうです、本来の自分の歌声じゃないんだから。当時風にいえば「ぶりっ子」ですね、これはP氏か、あるいはおそらくもっと上からの方針では……。憶測ですよ、憶測ですが、たぶん某アニメから流れてきたファン向けに、こういう「演出」をした。
当時はまだレコードの時代だったので、A面の4曲はアイドル風AOR+5曲目は本格AORにして、B面に繋げる。B面は5曲を本格AORにして、最後の曲だけまたアイドルAOR、それてA面の頭に繋げる流れ……。たぶんこんな戦略だったのではないでしょうか、だとしたら納得、まあ自分の見方に過ぎませんが。
昔、メジャーバンド活動をしていた某声優さんの話だと、いわゆる「キャラ声」で歌うのは非常に難しいそうです。声を作ると音域が違ったりして、ベテランでも四苦八苦だそう。まして声優でもない二十歳のアーティストさんには……。こうして、このアルバムの何曲かで声が固い謎が36年振りに解けたのです(笑)(←笑、じゃーねーよw)
いやー、こうして改めて聞くと素晴らしいですよ、このアルバム。以前キュートAORって書いたけど、それは前半だけですね、後半は完全にハイクオリティなAORっすわ、それこそ世界レベル。
こんなに素晴らしいデビューアルバムだったのか。もっと早く気付くべきだった。しかし当時からこれAORって言われてたかなあ?、そういう評を見たことがなかったのだけど。やっぱりアイドルシンガーソングライターの……って流れだったと思う。アニメのせいでそう見られていたなら、ある意味不幸だったかも、ぶっちゃけ自分もそんな感じで見てたし。
後半は歌詞の世界も切ない恋を描いたものが多いし、随分と大人っぽい曲を書く20歳だったのだなぁ……って、これが20歳ってトンデモねーっすわ。実質、18~19で書いた曲もあっただろうし。いやー、改めてガクブルっす。
確かに、Pさんのアレンジとプロデュースは凄いっすよ、このアルバムの評には、大抵アレンジが良いから高品質な作品になった、というのがあったりしますが、駆け出しながら作家の一人としてこれだけは言いたい。元曲がダメならどんなにアレンジ頑張っても良い曲になりません。それは「華麗なアレンジを施された駄曲」になるだけです。
万一売れても3年もしたら消えていくでしょう……このアルバム、何度もリマスターされて普通に今もアマゾンで売っています。「In Print」なんですよ。36年前のデビュー作がそのまま普通に買えるアーティストって、日本に何人いますか? それが答えです。
時間が教えてくれるのは、Pさんのアレンジに「耐える」楽曲揃いだったということです。
間違いなく80年代のAORを代表する名盤のひとつ、というか80年代音楽のひとつの金字塔といえるでしょう。
こんなに凄い方だったのか、なんかスイマセンした……(なぜ謝るしw)。
いやー、36年も経ってから気付くのもかなりアレだが、自分の場合は却って良かったかも。今だからここまで分かった、音楽的にも(楽曲、アレンジ、ミックス)、現代でも通じるヒントが一杯詰まってました。
ミックスでいえばリバーブがアーリー・デジタルというか、当時の低ビットの感じですごく出てて、カッコイイ。シンセの音のセンスは、もう言うまでもない。
いやいや、もう大変勉強させて頂きました。
いつかこれを聞いて、80年代の日本は良かったなぁ、なんてみんな思う日がくるかもしれません、これから斜陽だからw せめて音楽だけは当時に負けないものを作っていきたいですね。
(毎回思うが、こんなことばっか書いてて大丈夫かな…抗議はウケツケマセーン、っておい)
(追記:なんか特に1曲目はそういうディレクションじゃないか(→声を張らない)という気がして再聴。たぶんそうですね…このように音楽の感想を言うのはとても難しい。まだまだ勉強不足、素直に反省)
以前も書いたけど、AORには大きく分けて2派あると思ってて、ひとつは「不良中年」コース、もうひとつは「アダルトチルドレン」コース。前者はスティーリーダン、ボズ・スキャッグス等、まあいわゆるAORの本流かも。後者はクリストファー・クロスとかJDサウザーとか、こっちも勢力大きいですが。(←この分析が少々古いのは認めるw)
AORってのは、もともと色々な要素を取り入れた音楽なので、ある意味根無し草でもあります。ジャズ、ロック、ラテン、R&B、ソウル…普通はそんなことをしたら到底聞けたものではない悲惨な代物になるはずですが(和洋中華の料理をごちゃまぜにしたところを想像して下さい)、それを非常なセンスで絶妙な配分で混ぜ合わせて、新しい美味しい料理を作ったのがAOR、って言い方ができると思います。
その意味で、実はAORはわれらがガラパゴスアイランズ=ジャパンにとても合う音楽だと思うし、ジャズなら本場はアメリカ、ロックもそうか(まあ欧州もあるしな)、でもAORってあんまり地域性はなくって、フュージョンと同じで世界同時進行って面もあったので、そんなにオリジンコンプレックスに悩む必要もない、日本人としては。日本文化自体が、色々なものの融合だしね、識者の学説でも。
で、思ったのですが、実は日本には独自に発達したAORの流派があって、それはここでは一応「キュートAOR」としますか。初期の「竹内まりや」とか、もうお一人、また名前出していいんですかねこれ…?(w)
Youtubeで80年代や90年代のライブ映像見てて、これは思いついた。こういう可愛らしい感じのAORってのは、たぶん海外にはないでしょう。ある意味、日本のアイドル文化からの本歌取りです。ご存知のように、日本のアイドル自体が、特に昔のやつとか、海外でカルト人気があったりしますからね。あれは本当に日本独自のものなので。
こういう感じのAORってのは、今はほぼ完全になくなってしまっているので、というかAOR自体がもうジャンルとしては消滅してますが(w)、伝統を絶やさないためにも、関係者の奮起が期待されます。いかがっすか?
AORってのは、言ってしまえば幕の内弁当だと思うのですよ。和洋中華の料理が絶妙の組み合わせと配分で入ってるでしょ? 美味しいし、みんな大好き(笑)。
そしてキュートAORは、女子がつくった手作り弁当ですよ。そぼろでLOVEって書いてあるような。男子からするとうへっマジかよ、って思うけど、内心にこにこだったりね(笑)。
どうすか、こんな分析。
ちょっと書き忘れてたけど、AORの成立にはもちろん従来の様々な音楽の融合もあったけど、それに加えて新しい音楽の要素、新しい楽器=シンセサイザーの導入は必須だったわけで、そこで日本の果たした役割は、実はとんでもなく大きいですからね。つい忘れがちになるけど、YAMAHA・Roland・KORGという三大電子楽器メーカーは、世界の音楽シーンに巨大な影響を与えましたから(それは今でも続いている)。
その意味で、もうAORは日本が本場だろ!って、僕らとしては開き直ってもいいくらい(ついで言うとフュージョンもね)。それくらい、深くコミットできる音楽ってことです(=海外から物真似といわれる心配がない)。
以下ブツブツ独り言っぽく…。
まあね、80年代に白のフリフリ衣装で歌っていたような曲を、いま同じようにやれって言われても、というのはわかります。でもファンはそういうのが意外と見たかったりして? 還暦でセーラー服着て歌っている大歌手の方もいるので。皆大喜びしてますよ。
以上、大変無責任な記事でした。ご利用は自己責任でお願いします(汗)。