タグ: 歌謡曲

ネットラジオ配信6/11

ヒカリ真王子さんがゲスト出演しているネットラジオ第4回が配信になっています。
当方で制作させて頂いた「翼の王国」という曲もOPとEDで流れています。
今回で最終回。(☆恒例のこぼれ話は…なんと!?)

2021/06/11【美遊空間】【第180回収録】ちよ媛の、あなたのそばに・・・居させてください【カテキンボイス ヒカリ真王子さん『うたうタクシードライバー』第四話】
https://honmaru-radio.com/biyuukuukan_mainichi0180/

ネットラジオ配信4/9

 ヒカリ真王子さんがゲスト出演しているネットラジオ第2回が配信になりました。
 当方で制作させて頂いた「翼の王国」という曲もOPとEDで流れています。
 (☆ちょっとムフフなこぼれ話もあります)

2021/04/09【美遊空間】【第137回収録】(突撃電話収録)ちよ媛の、あなたのそばに・・・居させてください【カテキンボイス ヒカリ真王子さん『うたうタクシードライバー』第二話】
https://honmaru-radio.com/biyuukuukan_mainichi0137/

阿久悠さんの意外な習慣

 花粉症が目に来て毎日目薬は朝夕2回ですわ。これ酷くなると激痛ってレベルまでなるからね。スギだけでなくヒノキで出ることもあるし、皆さまも発症しないよう祈ります。ある日突然来ますよ、前兆ないですよ。

 そんな中、阿久悠さんが書かれた本を読んでいて思うこと(歌謡曲の周辺みたいな内容の新書)。以前も思ったが、この方はいつも最新の流行や世の中の大きな動きを、意識して詳細にリサーチしてたようですね。それは職業作詞家として、どんな注文にも応えるためネタ仕入れという意味もあったろうし、作詞の実務で流行を取り入れないといけないということもあったでしょう。経歴を拝見すると、もともと広告代理店勤務で、そこから作詞を始めて専業になったらしい。後には作家業(小説)にも手を広げられますが。
 そういえば昔NHKの番組で出演されていた時、毎日自家製壁新聞みたいなやつをノートに書いている、という話をされていたと思う。無論手書きですが、見出しやレイアウトにも配慮して、大きなニュースや面白い事件がメモ程度の「本文」で記載されていて、確かにこれはネタ帳になるな、と感心した記憶があります。もともとは日記をつけていたそうですが、後から読み返すとイヤになる、あの時あいつはこう言ったどうしたと細かいグチばかりで、と。(主に学生時代、自分もすごく心当たりがある(笑)。日記が続かない理由ってこれなんですね、ズバリ言い当ててるのは流石。司会の夢枕獏さんも頷いてました)。このノート新聞も、読み返しているとこの時はこんなことがあったな、と不思議と日記代わりになるという話でした。

 その阿久さんのような作詞家でも、ある時期から仕事がかなり減っていったと聞きます。(この方クラスは別格としても、食えなくなる人も出るくらいだった)それはズバリ、シンガーソングライターが台頭したからなんですね。阿久さんは彼らにはなかなか批判的であったらしい(作詞の部分で)。
 それはともかく、ヒット曲を作るのためには、それこそ広告代理店的な、情報リサーチの必要性もありそうです。考えてみればプロダクションはどこもやっているんだけど。最近話題の某ユニットも、あれは仕掛け人が売り方なんかをネット時代に合わせて詳細なリサーチをして、入念に準備したと聞くし。
 商業音楽である以上、売っていくためには戦略やリサーチはやはり要るということでしょう。それはたとえ小規模なインディーズでも同じ。もっとも、自分の好きな音楽だけを好きなように作るという道もありますが……。

ネットラジオ配信

 ヒカリ真王子さんがゲスト出演しているネットラジオが配信になりました。
 当方で制作させて頂いた「翼の王国」という曲もOPとEDで流れています。

2021/03/12【美遊空間】【第123回収録】ちよ媛の、あなたのそばに・・・居させてください
【カテキンボイス ヒカリ真王子さん うたうタクシードライバー 第一話】
https://honmaru-radio.com/biyuukuukan_mainichi0123/

伊勢佐木あたりに点る灯は…

 タイトルを見てピンと来たあなたは、少なくともアラフィフ以上のはずw そう、青江三奈さんが歌った「伊勢佐木町ブルース」の話です。イントロで扇情的なハイストリングスと、青江さんのハスキーで低い「アン、アン」という”喘ぎ声”(音楽的にはスキャットと考えられる)が呼応しあう、一度聞いたら絶対に忘れられない名曲ですね。
 なんか、いきなり聞きたくなったんですよ、Youtubeにも音源が上がっているけど、例によってあまり良いエンコーディングじゃないし、結局ベスト盤CDを買って聞いたがこれがやはり大変良いものなのですよ。聞こえない楽器の音がちゃんと聞こえる、アレンジが立体的によくわかる。ともかくこれは大人のPOPSだなあと、これもムード歌謡になると思います。
(ストリングスは音域の関係で少しピッチが悪いんだけど、そこがまた生の味。絶妙の効果です)

 作詞・川内康範、作曲・鈴木庸一、編曲・竹村次郎。この中で川内さんは、昭和の数々の演歌・歌謡曲を手がけた希代のクリエイターですね。なんと、あの『月光仮面』の原作者でもあり(日本の特撮ヒーロー物の元祖!)、そして70年代にはこれまた大ヒットした子供向け特撮物『レインボーマン』も手がけられた方。自分はそっちは小学生のとき直撃世代なので、敵の「死ね死ね団」は怖かったなあ(一説ではこれがオウム真理教にまで影響したとか)。
 ちょっと話が逸れましたが、そんなこんなで歌詞がまた素晴らしい。じっくりと聞き込んでいると、引き込まれてしまいます。

 青江さんは、今から思うとクラブシンガーっぽいな、などと思っていたのですが、Wikipediaを見ると本当にクラブシンガー出身で、高校時代既に有名な「銀巴里」で歌っていらしたのですね。この曲のアレンジはジャズっぽいけど(アフタービートだし)、だから見事に歌いこなしておられるのかと納得。川内さんに見出されたのだそうで、この曲の他にも作詞担当は多数。
 いや、しかしこのハスキーで低い声、これで冒頭の煽ぎ声のパートは、今から聞いても非常に良いですわ。凄いアイディアです、サビでまたスキャットが入るしね。
 そして、ジャズだからこの曲を昔の歌番組の生ビッグバンド(+ストリングス)でやると、実に決まるんですね。カッコいいブレイクもありますよ、これがビッグバンドブラスで決まると超クール。そんなところまで考えられたアレンジであったといえるでしょう。

 ま、この曲は大人が聞いても嬉しいが子供が聞いても楽しいんだよね(w)。なんかお姉さんがアンアン言ってるしシュビドゥバーとか言ってるし、子供にも大ウケ。真似してましたよ。青江さんはドリフの「8時だョ!全員集合」にもよく出演して歌唱されていたような記憶。

 横浜には、この歌を記念した歌碑まであるそう。
 平成も終り、令和の世からはるかに昭和中期のムード歌謡に思いを馳せる、そんな夜です。売れた枚数じゃなく、この頃のヒット曲は本当に大人から子供まで皆知っていました。
(ベスト盤には、後年リリースしたシティポップ調の曲まで入っていました。イイっすぜ)

「サウスポー」関連・補遺

 阿久悠さんのエッセイ本「愛すべき名歌たち」到着。
 該当箇所を見てみたけど、自分の知っている話はこのエッセイだけの情報ではなかったっぽい。とりあえず大筋の経緯は同じです。スタジオでスタッフが待機……という話は、どこか別のエッセイだったか、ライターの記事か、あるいはTV番組か。ディレクター氏が来たのは、阿久さんが仕事部屋にしていたマンションの部屋だったとのこと。そして工場締め切りまで24時間しかなかったのは同じです。(当時のピンク・レディーは初回80万枚だったそうですw)
 あと面白いのは、後に王貞治さんに、曲のことでお礼を言われたそう。(没曲には、一本足打法の打者は出てこなかったとのこと)

 ピンク・レディーは、活動時期が’76~81年で、しかも後期はアメリカでの活動の力を入れていたので、実質的に70年代後期に活躍したグループといえそう。
 今回気付いたことが2つあって、ピンク・レディーの曲も’70年代サウンドだったということ。同時期、冨田勲さんはシンセサイザー作品を発表し自分はリアルタイムで聞いてましたし、ウェザーリポートもこの頃が最盛期でやっぱり聞きまくってました。
 洋の東西はあれ、この時期は本当に音楽がひとつ頂点を極めていたんですね、当時はそんなことは判らなかったが。

 そして、ピンク・レディーのビートを強調したポップな楽曲、歌いながら踊るスタイルというのは、実はすごく新しかった。(女子&児童からの支持が物凄く大きかった印象、皆振り付けを真似て踊ったのでw)
 そしてこのスタイル、「誰か」を思い出しませんか? そう、マイケル・ジャクソンですよ。ポップスのパフォーマンスにダンスを持ち込んだのはマイケルだと言われますが、同時代にピンク・レディーもやっていたんですね。(もしかするとちょっと早いかも?) 今では当たり前になった光景ですが、彼女たちがその走りといえそうです。

昭和の立看板物語~ピンク・レディー(2)

 前回の続き。
 ご存知の方も多いでしょうが、ピンク・レディーはデビュー当初から作詞・阿久悠さん、作編曲・都倉俊一さんという、ゴールデンコンビで大ヒットを連発していました。だから「サウスポー」もお二人の手になる曲なのですが。それについて、阿久悠さんが意外な秘密をエッセイで明かしておられたのですね。
 もう時効だから書くけど……みたいな出だしだったと思います。ピンク・レディー解散後10年は経っていた頃かなあ。

 いいですか、皆さん、心して聞いてください。たぶんこの話あんまり知っている人はいないと思う。「サウスポー」は、作詞・編曲・レコーディングから、ミックスダウンまで、つまり楽曲制作のほぼ全ての過程を、なんと24時間で終らせた曲だったのです。
(たぶん直前の作曲作業まで含めても、48時間掛かっていない…)
 マスタリング(当時はレコードなので原盤製造機で物理的に「盤」を作ったはず)まではどうだったか記述はなかったと思うが、工場にマスターを納入したところで説明が終っていたので、そこは任せたかも。
 あのミリオンセラーの大ヒット曲が、そんな短い時間で作られていたなんて……。ね、驚いたでしょ? 何度あの曲聞き返してもそんな火事場のような状態で制作されたとはわかりません、楽曲の質はどこをとっても超一流の仕事で非の打ち所はない。それが、ねえ……。阿久悠さんの言葉でなきゃ、自分も信じないと思います。
 なんでこんなことになったのか。なるべくエッセイの内容を思い出しつつ、書いてみます(細部が違っていたらあらかじめお詫び)。

 ピンク・レディーのプロジェクトもすっかり順調で、新曲も制作し終えて、阿久悠さんはある日自宅で寛いでいたそうです。そうしたら、夜になってプロデューサー氏がやってきた(お名前失念、面目ない。以下P氏とします。ディレクターだったかも?)。そこで衝撃的なことを告げられるのですね。実は、もう新曲のレコード工場締め切りまで24時間しかないが、今回の曲にどうしても納得できなくなったから、今から作り直して欲しいと……。
 仰天ですね。阿久さんもさすがに面白くなかったそうです。が、P氏が言うには、もうスタッフ全員説得して、スタジオで都倉俊一さんやピンクレディーの二人、そしてミュージシャンやエンジニアが全員待機している、というのです。ここまでされたらやるしかないですね。都倉さんが急遽作ったメロもできていて、用意周到持ってきていた。

 それで覚悟を決めて、徹夜で歌詞を書いたそうです。書きあがったのは明け方。メールどころかFAXすらない時代なので、バイク便でスタジオに歌詞を送った。

 スタジオでは、届いた歌詞を元に都倉俊一さんが大車輪で編曲作業をする。出来上がったメロディと歌詞を持って、ミー&ケイさんは別スタジオで歌の練習。出来たアレンジのパートから即演奏してレコーディング(ストリングスやブラスはパート譜もいるので、助手が書き起こしたり、ってこともあったかも)。それをエンジニアがミックスして……と、全スタッフ本当の不眠不休だったそう。流石にミー&ケイさんは、合間合間に休んでいたそうですが、でないと声も出なくなるもんね。
 それで歌入れがあり、レコーディングが終ったら、ミックスダウンして2mixが完成(これがマスタリング前のいわば「仮マスター」)。無事締め切りまでに工場にマスターテープが送られました、ここまで24時間だったそう。

 綱渡りというかなんと言うか……これを読んだ時の自分の感想は「全員超人か!?」でした。それがあの特大ヒットにつながるんだから……。単にミリオン行ったというだけでなく、当時は本当に日本人なら誰でも知っている曲でした。(まあ、ピンク・レディーの曲は全てがそう、なんだけど)

 阿久悠さんが書いておられたのですが、当時は面白くなかったが、それでも後で冷静になって考えたら、没になった曲はちょっと守りに入っているような面もあって、出来は悪くはなかったがあんな大ヒットには繋がらなかっただろうとのこと。

 まあ、それでもこの件で本当に凄いのは、プロデューサーの方ですね。なぜか締め切り直前に、今のままじゃダメだと判ってしまった。そこで普通やり直しさせるか……と思うんだけど、この制作陣・ミー&ケイさんなら、短時間でもっと良いものが出来ると信じていたし、分かっていた。見事にそれに全員が応えたわけですね。丁半博打というか、出来ると信じていたから博打ではないんでしょうけど……。万一前より悪くなったら責任問題なので。プロデューサーの権限の大きさと同時に、責任も大きいんだなぁと、エッセイを読んで音楽マニア時代の自分は感心していました。

 以上、昭和の時代の偉大な業界の物語でした。おっと、立看板はどこへ行ったかって?
 そこで最初に戻るのですが、中学生の自分が「サウスポー」の立看板に覚えた違和感。そこへこのエッセイが繋がるのです。つまり、気のせいか「時間(準備)不足」と感じたのは、実は正しかったのだ、とw こんな締め切りギリギリに上がった曲では、じっくりポスターの写真を撮る(&企画を練る)時間もあるわけがない。どうですか、なかなか鋭い子だったでしょう?……ということが言いたいのではなく(汗)、この「サウスポー」の偉業をぜひ広めたいと思い、書いた次第です。

(例によってWikipediaを調べてみたら、この没曲はなんと阿久悠さんのCD-Boxに入っているらしい。一部がCMに転用されているとのこと。没曲もサウスポーというネタだったと書いてあるが?w やはり中学生の眼力はこんなもんか(呆)。でも撮り直した可能性もあるしなあ。一応、ディレクター氏のお名前も書いてありますが、エッセイではどうだったか確認できないので、今回はこのままにしておきます。若干経緯も違うようだ、阿久さんのエッセイ本を突き止めたので現在到着待ち)

(今回、当時のジャケットやポスターの画像を検索してみたが、どうもどれも違う気がする……。宣材ってたくさん撮られますからね)