「坂本龍一 最期の日々」で考えた

 NHKスペシャル「Last Days 坂本龍一 最期の日々」を見て思ったこと。

 まず、人の死とはとてもパーソナルな……というか究極にパーソナルなもののはずで、それをこんなに「パブリック」にしてしまっていいのか、ということ。ご本人やご遺族の許可はあったのでしょうが、それでも……。たぶん冒頭の、弱った坂本さんの姿を見てショックを受けた人は多いのではないでしょうか。
 ただ、少し考える中で、もしかしたら坂本さんは自身の最期を包み隠さず見せたかった、あるいは記録しておきたかったのではないか、と思えてきました。

 ふと思い出したのは、ジョン・レノンとオノ・ヨーコのベッドインです。この時はハネムーンで、マスコミの怒涛の取材を逆手にとった平和運動のアピールだったのですが、フィルムに残されています。ジョンは撃たれて死ぬわけですが、坂本さんは音楽家の死をひとつ、映像の形で遺しておきたかったのではと思えてきます。だから、カメラの前ではできるだけ気丈に振舞おうとしていた。

 そう思うと、どうやら意識がはっきりした状態で最後に聞いた(見た)のが、自身が音楽監督を務めた「東北ユースオーケストラ」の定期演奏会のネット中継だった、というのは象徴的な出来事です。音楽や思想が未来に受け継がれていくわけですから。
 この時、もうご自身の要望で、ターミナルケア(終末期医療)の真っ最中だったそうで、覚悟を決めておられたはずです……。その様子を、僕らは映像で見せられました。

 以前も書いたけど、音楽家の死というのは実に不思議で、その作品はいつまでも残るのに、本人はこの世から居なくなる。それがメディア化された芸術の宿命ですが、今回の番組で、はっきり人として坂本さんは居なくなったと僕らも認識できました。一周忌過ぎまで放送を待ったのは、作り手のせめてもの良識でしょう。

 ただ、遺された作品はやはり大きなもので、不謹慎ではありますが、坂本さんが最後に入院する前、小康状態だった間を縫って作られた断片的な未完の作品、自分もなかなか刺激を受けました。
 “響き”を主体としたオーケストラ作品(「自分の技量で完成するかわからない」とのコメント)、ちょっと聞いたところでは無調というわけでもなく、ハーモニーが聞こえたような……。これもまた広義のポピュラーミュージックといえるものかもしれません。

 あと、一度退院したあと、すぐにシンセサイザーを弾く、そしてシンセで曲のスケッチを作るところも面白い。ピアノだけではくシンセも最後まで弾かれていたわけで、これは自分としては嬉しいエピソードでした。
 他にも、楽曲の着想や構想を練るために、手近に音の鳴るベルを置いたり、ニューヨークの自宅庭に古いピアノを放置したりと、やはりDAWの前に座る前に、様々なことを試しておられたのだな、と。こんなところも実は楽曲制作のヒントが詰まっています。
 他にも雨音などの自然音の中に、何か音楽的な可能性を見出していたのではないでしょうか。

 かなり重い番組でしたが、人というのは日々亡くなっていくものではあります。坂本さんは最後の仕事(スタジオライブ収録)を仕上げ、家族に看取られて終末期医療の中で息を引き取ったのだから、悪くはない最期だったのかもしれません。

 私事ですが、自分も年齢から逆算して、あとどれくらい音楽を作っていられるか最近は考えている日々でした。今回の番組で、また覚悟を新たにしました。書きたい曲は書けるうちに早めに書いておかないと、絶対後悔する……ということでしょう。
 そのための環境作りも、今年は鋭意進めているわけです。